2007年02月24日

体験記4−死から蘇って

                       30歳代 主婦(東京都世田谷区主婦)

 私が喘息になったのは、中学2年の冬でした。当時は福岡県北九州市に住んでいました。
その時は風邪を引いて肺炎になりかけたのですが、初めて苦しい発作を経験しました。まずセキが止まらず、呼吸がうまくできず、食事も、歩くこと・寝ることも、横になることもできず、ただただ苦しくて苦しくて、自分でもどうしてよいのかわからず、涙が止まらなかったことを覚えています。親も初めての経験なので、どうしてよいのかわからず、とまどっていました。次の日、歩くことも困難でしたが、病院に行き、気管支喘息と診断されました。病院で点滴・吸入をしたら、少し楽になりました。それからは風邪を引いた時や季節の変わり目に発作が起きるようになりました。
 発作が出た時は、かかりつけの病院で薬をもらい、吸入・点滴をしてもらっていました。その当時は年に3,4回発作が起こるくらいでした。
 19歳の頃、仕事が変わり、精神的なものもあり、睡眠時間があまりとれず、ハードな生活が続いていたのですが、その頃、毎日のように発作が起きるようになりました。仕事が終わった後の電車の中で発作が起きて、そのまま夜間、病院に行ったり、毎朝点滴を受けてから仕事に行ったりしていました。はじめて入院をしたのもこの頃でした。それからは4,5回、入・退院を繰り返しました。ステロイドの副作用のせいで体重も増え、顔がパンパンになった時もありました。その頃、喘息体操をしたり、漢方薬を飲んだり、家で猫を飼っていたので家を出て部屋を借りて住んだりと、喘息についていろいろと勉強し試してみました。(薬ももう飲まなくてよくなりました)。親にもかなり心配、迷惑をかけました。それからは調子も良くなり、前のように年に3、4回発作が起きる程度でした。でも、前よりは呼吸の仕方や楽な姿勢がわかるようになったので、気持ち的にも楽になりました。
 22歳の時、仕事で福岡から東京に行くことになりました。23歳で結婚し妊娠。その頃は年に何度か軽い発作が起きる程度でした。そのまま東京で暮らすことになったのですが、仕事を辞め1日中家にいるようになってからは、毎日毎日自分の家族、友達、生まれ育った町のことを思い出しては泣いていました。マタニティーブルーだったこともあるのでしょうが、とにかくひどいホームシックにかかっていました。そんな精神状態だったからか食事もほとんどとれず、妊娠しているのにあまり体重が増えませんでした。
出産のため福岡の実家に帰り、無事、発作も起こらず、2,422.8gとやはり小さかったのですが、元気な女の子を出産しました。
 退院して実家にもどって1週間くらいしてからセキが出るようになりました。「風邪を引いたのかな?」と思っていたのですが、変な苦しいセキがずっと続くのでおかしいと思い病院に行ったら、喘息と診断されました。久しぶりの喘息だったのでその苦しさを忘れていて、「これが喘息だったの?」とびっくりしました。それからは日に日に悪くなり、とにかくセキがひどく声が出なくなるほどでした。
実家から東京に戻ってもそのセキは毎日続きっぱなし。主人の友人に喘息専門の病院を紹介してもらい、家からは遠い場所だったのですが、毎週義父が車で連れて行ってくれました。
子どもが生後4、5ヶ月の頃、急にはげしい発作が起きて夜に救急病院に行き、ボスミンを打ってもらい、点滴を受けて落ち着きましたが、何ヶ月もこの状態が続いているようなら入院しなさいと言われ、すぐ入院しました。それからは、退院しては発作が起きて毎日点滴を受けに行き、夜中も発作が起きれば注射、点滴、吸入の繰り返し。そしてまた喘息がひどくなってきて、5、6回入退院を繰り返しました。毎日セキ、発作が起き、普通の生活どころか子どもの世話もできないくらいでした。
 その頃、喘息にいいと聞けば何でも飛びついていました。「あそこの病院がいいよ。」と聞けばそこに行き、漢方薬、健康食品、はり、お灸、その他いろいろありますが、1つの物、場所でなく、何でも試しました。中には怪しいものもありましたが、藁にもすがる思いでした。家では主人が取り付けてくれた酸素を毎日夜にして寝ていました、
ステロイドを飲み始めると、少しは呼吸も落ち着き、普通の生活も送れるようになりました。けれどもセキは毎日出ていて、呼吸が「ヒューヒュー」といっていました。
 2年くらいステロイドを飲み続けていた頃、2人目の子どもがほしいと当時の先生に相談しました。「じゃあステロイドを止めよう」と言われその日からステロイドを止めることになりました。その後は日が経つにつれて調子が悪くなり、セキが止まらない、息はできない、食事はできないという状態でした。1,2ヶ月経った夜、急に息ができなくなり、いつもの発作と違うと思い、主人にすぐ行きつけの救急病院に連れて行ってもらいました。そこには若い整形外科の先生しかおられなくて「あまり強い薬は使えない。」と注射はしてもらえず、とにかく吸入、点滴をしてもらいましたが良くならず、その先生に「これ以上わからない」と言われ、待合室で待たされていました。息もできず座っているのもとてもつらかったです。そんな時、主治医の先生がたまたま忘れ物を取りに病院に戻ってきたところ、私に気付いて診てくれることになりました。そして注射、点滴をやってくれました。それで前よりは少し良くなったもののまだまだ息苦しさは変わらず、点滴をしながら疲れてきてぐったりとなっていました。点滴の2本目が終わった頃、息ができなくて苦しく、だんだん意識がなくなり、スーッと逆に気持ちが良くなり、周りが真っ暗というより黄色で明るかった気がします。「あっ、これは死ぬな。」と感じました。主人、子ども、親、友達、それまでの26年間の全てのことを早送りで思い出しました。それからは全く記憶がなく、後で聞いたのですが、呼吸が止まり、先生、看護師さんたちがあわてていて、それを待合室で見ていた主人は何が起きたのか、その状況を見て足ががくがくして震えが止まらなかったと言っていました。先生に「2,3日もつか…。会わせたい人にすぐ連絡してください。」と言われたそうです。私の母も福岡からすぐ来てくれました。
 気がつくと私は重病人の患者の部屋に入り、人工呼吸器を付けていました。2、3日経つと、主人は先生から「回復に向かっているので安心していい。」と言われたそうです。先生、看護師さんも驚いていて「奇跡だ」とおっしゃっていたそうです。1週間は薬で眠っていたのですが、目が覚めて私はびっくりしました。まず「生きている」と感じ、となりには主人がいて、先生、看護師さんにやさしい笑顔で言葉をかけてもらい、私は助かったんだな、と実感しました。まだ話をすることもできなかったのですが、話したい事、聞きたい事がたくさんありました。自分では夜、病院に行って点滴してもらってからは記憶がなかったで…。(あとで先生に聞くと1度は心停止したそうです。)
それからはだんだん回復し、3週間ほどで退院することができました。退院後は、ステロイドを飲み続けたほか、他の薬も飲み、1週間に1度病院に点滴をしていました。ある日、私の担当医が他の病院にお移りになると聞きました。そこは家から遠い場所で、通院することはできませんでした。悩んでいた時、義父から久我山に喘息専門の有名な先生がおられるらしい、と聞きました。義父はタクシーの運転手なので、いろいろな噂を聞いていたのです。良いきっかけだと思い、これまでの病院に通うのは止め、久我山病院アレルギー科の長屋宏先生に電話をし、予約しました。
 長屋先生に初めてお会いした当日は、それまでのことを話し、当時飲んでいた薬をお見せしました。長屋先生がすごく怒っておられたのを覚えています。まず2年近く飲んでいたステロイドを急に止めたこと、そんなことをすれば症状がひどくなるのは当たり前だと言われました。痰を抑える薬も飲んでいたのですが、痰は出さないといけないのに、そんなことをしたら痰が切れないでしょう、と言われました。
 それからは長屋先生の御指導の下、週に2、3回、減感作の注射を受けるため久我山病院に通いました。減感作の注射を打つようになってからは、日に日に自分の体調が良くなっているのがわかりました。それまでは毎日セキが出て、話をする時もゼーゼー、ヒューヒューと喉が鳴っていたのに、セキも出なくなり、楽に呼吸ができるようになりました。とにかく安心して毎日を過ごすことができるなんて本当に幸せです。
長屋先生に初めて診てもらってから9、10年経ちましたが、その間発作が起きて夜に病院に行ったことは1度もありません。大きな発作が起きたこともありません。年に2回の衣替えの季節に呼吸が苦しくなることはありますが、吸入すれば治まるようになりました。
 今までは喘息のせいで、特に出産後はひどく毎日が苦しく不安で、家族のみんなに不安をかけていました。けれども長屋先生に出会ってからは、そんな苦しい思いをしていたのがまるで嘘のようです。ステロイドも少しずつ減らし、2、3年で止めることができました。平成16年7月に無事に待望の2人目を出産することができました。もっと早く長屋先生に診て頂ければよかったとは思いますが、これからも長屋先生の下に通って治療を続けていきたいです。
 今はアレルギーの方がすごく多い時代です。喘息で苦しんでいる人は大勢いらっしゃると思います。1人でも多くの方にこの減感作療法という治療法をお教えしたいです。
知り合いで喘息の方を聞いて2人ほど長屋先生に紹介しましたが、2人とも嘘のように良くなったと喜んでいました。
最後に、7年間も一緒に私の病気とたたかってくれた主人と主人の家族、私の両親にありがとうを言いたいです。面倒を見てやれなかった子どもへ、ゴメンネ。
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2007年02月22日

久我山アレルギー患者の会/久我山病院康和会会談議事録の詳細

標記の件、以下の通りです。
                 久我山アレルギー患者の会

久我山病院との面談 議事録(一問一答)

日時:  平成19年2月19日(月)午後7:30〜8:30
場所:  久我山病院3階会議室
出席者: 病院側 社会福祉法人康和会 理事長 
         久我山病院 総務部長 
     医師側 久我山病院アレルギー科 長屋医師  
     患者側 久我山アレルギー患者の会
          A,B,C,D,E

発言内容
(理事長)新患受付を再開していい。
(長屋)05年12月に当時の総務部長より私に対し、近年患者数が減少し私も高齢なので、診療日数を減らしたらどうか、アレルギー科は赤字幅が大きいので、診療日数を減らして赤字を縮小したい、という申し出があった。それで06年4月から診療日数の削減・新患受付の停止という結果になった。すると(06年度に)患者数が減ったので、さらに診療日を減らしたいといわれた。
 06年度に耳鼻咽喉科にかかっていた78歳の女性が、明らかにアレルギー症状を起こしており私としては治して差し上げたかったが、アレルギーが新患を停止しているため不可能だった。私としては見るに忍びない出来事だった。一切の例外を設けないのはおかしい、新患を取らないのはおかしいと感じた。地域医療の中核たる当病院がこんなことでいいのかと思った。
今回の新患再開は大きな進歩だと感じる。
(理事長)どのくらいの新患を取る考えなのか、6コマのうちのどこかに固定するお考えな
のかを伺いたい。
(長屋)私としてはできる限りの新患を取りたい。
昨年、私は日本アレルギー学会の専門部会の研究推進委員(委員長は東大教授で委員長の専門はリウマチ)になった。これから委員会を通じて減感作療法を推進していきたい。日本では、医学部教授でさえも減感作療法を教えることが可能な人がいない。これから委員会を通じて提案し志ある人に教えていきたい。
 なお日本では舌下減感作の研究がなされている。これはWHOも認めている治療法だが、喘息に効かない。(舌下減感作を行っている)日本医大の某先生も喘息患者をとらない。また舌下減感作には、これを行なってむせたら喘息を引き起こすという危険がある。
(理事長)新患診療の日を特定の日に決めてほしい。
(長屋)当面(昨年6月までと同様)水曜午前にしたいが、また(後継者を教える際の)状況を見て考えたい。
(理事長)3月から新患を受け入れることに決定する。
(長屋)(帰国後最初の水曜の)3月7日は通常診療があるので、3月14日から新患を受け付けたい。
(理事長)それでかまわない。長屋医師の07年度の契約締結は帰国してからでよい。ただ(減感作の)診療報酬の再評価をアレルギー学会に要求すべき。(ここで理事長より再評価申請のための関係書類を手交)
(患者A)アレルギー科は患者の待ち時間が長く、医師の昼食時間もないほど職場環境が劣悪。改善が必要だと思う。長屋医師を助けるための医師が必要。医師の失業者を探したらどうか。
(理事長)医師の失業者は聞いたことがない。
診療報酬の再評価のためには申請が必要となる。今年の6月29日がタイム・リミット。これを逃すと今後は2年後になってしまうので御注意が必要。なお再評価申請は医師しか行う資格がない。
(患者B)診療場所が縮小されるとのことだが、具体的な予定を聞きたい。
(理事長)診療場所は今の2階のままだが、(今3個ある)ベッドを1つにしたいと考えている。
実はある科を閉鎖する予定で、その後地を秋口から会議室兼保健室のような多目的スペースにしてアレルギー患者の時間待ち場所にすることも考えている。工事を夜間にするなどして診療に支障をきたさないよう配慮する。
(患者一同)新患受付を再開して頂いたことに感謝したい。

                                   以 上


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久我山病院康和会のご理解を得て

久我山病院アレルギー科患者の皆様

本年2月19日(月)、久我山病院側と「久我山アレルギー患者の会」患者7名との間で
再度の話し合いが行われ、下記の通り合意に至りましたので、御報告申し上げます。

1、本年3月14日(水)午前より新患受付を再開する。新患の診療日は当面水曜午前
とする。
2、通常の外来診療も、水曜午前を除き現状のまま継続する。ただし3月7日(水)午前
は通常の外来診療を行う。

したがいまして、アレルギー科の外来診療は、長屋医師の帰国後、3月2日(金)からこれまで通り行われます。本件に関しまして、多くの方々にご協力を賜り誠に有難うございました。

             
                                                       以 上

                 久我山アレルギー患者の会

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久我山病院康和会理事長と和解成立

 久我山アレルギー患者の会は、久我山病院とのこれまでの経緯については本ブログでも既にご報告いたして参りましたが、2007年2月16日久我山病院康和会理事長との初めての会談を持つことができました。その後、合意、決裂、プラカードによる抗議などの紆余曲折を経て、また最終的には久我山病院康和会理事長の前向きなご理解を得て、2月19日、以下のような合意に達することができました。我々当事者一同、皆様のご支援に衷心より感謝申し上げますとともに、現在頼る当てもなく苦しんでおられるアレルギー患者の皆様にいつでも久我山病院で長屋宏医師は76歳になってもなお矍鑠(かくしゃく)として世界一の減感作療法(正確にはアレルギー特殊的免疫療法)を施していただけることをお約束できることになりました。日本の医学界は一刻も早くこの世界に誇れる治療法の後継者を育成すべきであり、このことを声を大にして叫びたいと思います。

合意事項
1.本年3月14日(水)午前より新患の受付または診療を再開する。新患の診療日は当面水曜日の午前とするが、状況により変更もありうる。
2.通常の外来診療も、水曜午前を除き現状のまま継続する。ただし長屋医師と患者間の話し合いに基づく変更・縮小はありうる。
                           以上
                 久我山アレルギー患者の会
ラベル:より
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2007年02月18日

久我山病院康和会理事長との会談議事録

久我山病院康和会理事長との会談の結果をご報告いたします。
我々は長屋宏医師の受診の機会の危機に瀕しております。皆様のご支援を衷心よりお願いいたします。
久我山病院との面談 議事録

日時:  平成19年2月16日(金)午後1:00〜2:00
場所:  久我山病院3階応接室
出席者: 病院側 社会福祉法人康和会 理事長 氏
         久我山病院 総務部長 氏   
     患者側 久我山アレルギー患者の会
          発起人 A
           同  B
           同  C


患者側からの要望内容
1、 久我山病院アレルギー科のお蔭で、我々患者は、気管支喘息、小児喘息、花粉症、
アトピー性皮膚炎等各種アレルギー病から解放され、健康を回復することができた。
この点、病院側に謝意を表したい。久我山病院アレルギー科の長屋宏医師は、日本の
みならず世界でもトップクラスの医療技術を持っている。このような高度な医療を廉
価で提供していただいていることにも感謝する。
   しかしながら昨年4月以降、診療日が削減され新患受付が停止された。その意図を
伺いたい。
2、 長屋医師が最先端のアレルギー治療を行っていることは学会でも認められつつある
(日本アレルギー学会の研究推進委員に選任された)。しかしながら同医師は高齢であり、
長屋式減感作療法を行う後継者が必要である。我々患者も厚生労働省に陳情に赴く等
して努力しているので、貴院にも助力願いたい。
3、 昨年4月アレルギー科が縮小された際143名の患者が診療体制を元に戻すよう署名
活動を行ったが、貴院からの回答がなかった。患者と病院側との密なるコミュミケー
ションをお願いしたい。

病院側の回答
 1、長屋医師が治療を続ける意思のある限り、アレルギー科は存続させるのが病院側の経営方針である。
 2、アレルギー科では、患者の入院がなく、外来診療だけとなっている。そのため病院側としては収入単価が低く、経営にとって負担が重くなっている。また長屋医師の後継者がいないという問題もある。それが昨年に新患受付を停止し、診療日を削減した
理由である。
3、減感作療法は保険既収載技術となっているため高い診療報酬が与えられないのが、患者から報酬を得られない理由となっている。長屋医師の医療技術が評価される必要
がある。
4、患者とのコミュニケーション不足については、昨年7月の総務部長交代に伴う行き違いがあった。

患者側は、以上を聞いた上で、たとえ経営上の問題があっても、今日この日にも長屋式減感作療法を受けることができないため喘息発作等に苦しめられている患者がいるこ
と、過去の例からみると新患を取ったからといって必ずしも患者数が増えはしなかったことを指摘して、新患受付の停止の撤回を求めた。また長屋医師の後継者探しについての助力を求めた。
しかし病院側から返答は得られなかった。

従って、本面談ではアレルギー科を存続させること以外、何ら合意には至らなかった。

以 上
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2007年02月12日

久我山病院庚和会理事長へ催促状発送

2007年1月25日発送の書簡に対して今日に至るまで何らの返答がないので久我山アレルギー患者の会では庚和会理事長に対して以下の催促状を出状した。
平成19年2月9日

〒157−0061
東京都世田谷区北烏山2丁目14番20号
社会福祉法人康和会 理事長殿  


前略 
私共は多数の久我山病院アレルギー患者の信任を受け、「久我山アレルギー患者の会」の発起人を共同で拝命しております。
貴殿に対する要望は、本年1月25日付の発起人よりの書簡(以下、「書簡」と略称します)において披瀝した通りであります。しかし、貴殿は書簡を受領されて本日に至るまで2週間が経過したにもかかわらず、何のご返答も私共は戴いておりません。このように貴殿が書簡の到達を無視するかのような態度を取っておられるのは、不誠実であると言わざるを得ず、極めて遺憾であります。
私共が「書簡」において貴殿に要望したのは、貴殿との直接の対話であります。就中、
1.昨年4月以降の診療日減少、新患受付の停止というアレルギー科に対する貴殿の施策の意図及び根拠。
2.長屋式減感作療法を縮小ないし消滅させようとする根拠。
を問うとともに、貴殿に面談して直接そのお考えを伺う機会を求めるものであります。
さらには我々アレルギー患者が救世主と仰ぐ長屋宏医師へ貴殿が伝えたとされる他の医師からの批判とそれに基づく来期における報酬半減の処分ということの真偽を是非とも貴殿からご説明願いたいと強くお願いいたします。批判をしている医師は誰であるか、その批判の根拠を我々は知りたいと思います。何故なら長屋宏医師よりもアレルギー症状改善に有効な治療をしてくださるのであれば我々としても聞かせて頂きたいからであります。これまでも貴殿は長屋宏医師に対して年齢を理由とする差別的な非難中傷をされたということも我々は耳にしており、それらの真偽およびその具体的根拠も併せて伺がわせてください。
 今日に至るまで、貴殿が私共に対して何ら返答をされず、何らの説明をされないのは合点が行きません。病院経営者が患者とのコミュミケーションを自ら放棄されるものと考えざるをえないのでしょうか。世の常識から言って不誠実とさえいえないでしょうか。医療現場において病院側と患者の間のコミュニケーションが極めて重要であることは、もはや社会常識であります。また久我山病院の理念として、患者の人格、権利、生活を尊重するとありますが、貴殿の行動はこの理念を自ら踏みにじるものと言わざるをえません。
さらに医師法第1条、及び第19条1項の精神にも悖るのではと考えますが、この点如何でしょうか。
 また私共が開設しております「久我山アレルギー患者の会」の公式ブログには連日多くのアクセスがあり、長屋式減感作療法を受けたいというアレルギーに苦しむ人々のために当会は本の出版をも計画しております。貴殿が新患の受付を停止されているのは、これらを通じて長屋式減感作療法の存在を知り関心を抱くに至ったまた今後抱くであろう世間一般の患者を困惑させるものであります。
 我々は「書簡」でも懇請致しておりますが、改めて「書簡」および本書簡で新たに付け加えさせて頂いております我々の疑念・質問に対し貴殿が誠実に対応され、我々患者に対して直接の面談によりそのお考えを知る機会を設けてくださることを切に求める次第であります。長屋宏医師は2月21日より渡米されるご予定と伺っておりますので、それ以前に貴殿への面談の期日を設定して戴けますよう切にお願い申し上げます。

                           草々
 
                  久我山アレルギー患者会
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2007年02月08日

厚生労働省へ再陳情

一昨年12月の陳情に続いて再度厚生労働省へ陳情して参りました。追って議事録および陳情結果に基づく厚労省への書面による要請をする予定ですが、取り合えず以下に今回陳情の概要を記します。
平成19年2月6日
厚生労働省に対する要望
久我山アレルギー患者の会
T.長屋式減感作療法により改善しつつある患者の体験記5例
U.昨年12月9日付陳情で要請した内容への対応はどうなったか。→添付TA,B
V。 厚生労働省に対して日本のアレルギー医療の改革の為に次の要望・提案をする。
A.前提
一.薬物による対症療法はアレルギーを一時的に抑える弥縫的な治療法に過ぎない。対症療法はアレルギーによる修復不能な呼吸気道のリモデリングを根治することはできない。
二.アレルギー免疫療法(徹底した減感作療法)は アレルギーを治せる唯一の根本治療法であることは1997年にWHOも宣言している。日本以外の先進国はすべてこの治療法を実施している。これを日本でも実施することが急務である。
B.日本で現在十分に実施されていない改革すべき具体的な項目
1.アレルギーの原因確定
アレルギーの原因を突き止めることがスタートとなる。通常複数(20〜40)あるのでそれらを出来るだけ多く網羅的に確定することが必要。(添付TB)
これは現在日本アレルギー協会を通じて米国Hollister―Stierから入手可能だが入手に3ヶ月以上もかかる上に現地価格の3倍もし、かつまた患者の実費負担になっている。政府が一括輸入して予め準備しかつ保険対象にして欲しい。
2.その確定の手段
そのためには皮膚テストが必要であること。日本の殆どの医師は血液テストしかしていない。血液テストでは小児やアレルギーになりたての患者には発見できず、見逃す可能性大。アレルギーテストは体内のIgEの有無・量を測ることだが、IgEはアレルギー反応とともに身体の外表(皮膚・呼吸気道・鼻胃腸壁など)にまずたまり、その部分に十分たまってから残りが血液中にたまってゆく。それゆえ血液中に反応が表れるほど十分なIgEがたまる以前に喘息などの重篤なアレルギー疾患を起こしていることがある。この場合は血液テストには表れないのでミス判断になる。従ってまず第一に皮膚テストをやるべきで、それによりより正確なアレルゲンの早期発見が可能になる。アレルギー学界に皮膚テストが普及するように力を入れて欲しい。
3.テスト溶液の確保
テストのためには十分なテスト溶液が必要であること。日本で入手可能なテスト溶液は限られており、これを早急にふやす必要がある。(添付TB)これを実現して欲しい。
4.注射液の確保
テストで分ったアレルゲンの減感作注射が必要であること。
そのための注射液が必要であること。→十分にない。テストはやっても治療液がない。→患者はテスト代を払わされて治療して貰えない状況(添付TB)
治療液を増やして保険対象に欲しい。とくにダニの治療液が急務。公害喘息の認定を受けた小児喘息患者の99%がダニに強度の陽性反応を示しているという臨床結果が出ている。小児喘息はダニが主原因であって公害はその悪化加速要因であることを認識してダニの減感作療法普及に努めるべき。ダニが成人・小児を問わず喘息の最大原因であることは周知の事実である。
5.安全かつ有効な減感作注射を行える医師の養成
その注射をすることの出来る医師がいなければならない。→いないと言って良いほど限られている。安全かつ有効な減感作注射を行える医師の養成に力を入れて欲しい。
6.以上につき日本アレルギー学会は何をしているか→対症療法に終始。
国民の少なくとも3割(4千万人)が何らかのアレルギーに悩んでいるという現実の中で、厚生労働省は、国民がアレルギーから解放される唯一の根本治療法であるアレルギー免疫療法(徹底した減感作療法)に目をつぶり続ける日本アレルギー学会に国民の血税を注ぎ続け、徹底した減感作療法に不可欠なテスト用・治療用エキス拡充が急務であるにもかかわらず、国民を救済すべき施策への要請を50年に亘って放置し怠り続けている。
以上を改め、早急に、50年遅れたアレルギー医療改革に着手して欲しい。
以上
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体験記3ー小児喘息から30年を経て

45才男性の体験記                         東京都 自由業(45歳)

私は京都の出身です。ぜん息を発症したのは2歳の頃でした。物心のつかない頃からぜん息発作に悩まされていました。小学校の頃は、ぜん息発作のため多くの日に登校できませんでした。発作が起きると呼吸困難に陥り、とても苦しく、こんなに苦しいのならいっそのこと死んでしまいたいとたびたび思ったのを、今でも憶えています。両親はいろいろと手を尽くしてくれましたが、あまり効果的な治療法にめぐりあうとはできませんでした。「小児ぜん息は大人になれば自然に治る」という医者の言葉だけが頼りでした。
小学校5年の時、京都市内での引越しを経験しました。それでぜん息発作の起こる回数が少し減ったように思います。しかし中学・高校生になっても、季節の変わり目や、梅雨・台風シーズンなどのじめじめした天候の日になると、必ずといってもよいほどぜん息発作は起きました。発作が起きるたびに医院に通院し経口ステロイドを服用して、発作を抑えるということを繰り返していました。また当時は鼻水がよく出る日もあったのですが、まだ花粉症という言葉もない時代で、どのように対処してよいのか分かりませんでした。
大学入学時に東京に上京しました。環境が変わったのがよかったのか、上京してからはずいぶんぜん息発作の起きる回数が減ったように思います。大学時代には発作は一年に数回で済み、いちおう落ち着いていました。
しかし、卒業・就職すると、また発作が起きる回数が増えました。今から考えると、のん気な学生生活から肉体的・精神的にストレスの激しい仕事生活に入った影響ではないかと思います。
そこで、仕事のない土曜日に大手病院に通院することにしました。そこで初めて減感作療法というものを受けました。ただしハウスダストだけの注射に止まっていました。テオフィリン系を中心とした経口の気管支拡張剤を毎日服用することにより発作を予防し、週末の土曜日にハウスダストの減感作治療を受けるというのがその大手病院の治療法でした。同病院の担当医師によれば、他に良い治療法はなく、またこの治療法を継続していれば徐々に症状は良くなるということでした。なおそのような中で27歳の時に結婚しました。
しかし上記のような治療法を続けても、あまりぜん息が快方に向かいつつあるとは思えませんでした。むしろ天候がじめじめしたり、仕事が忙しくなって疲れがたまったりするとたびたび発作が起きるようになりました。その頃にはぜん息発作のため有給休暇を取ることを余儀なくされたり、帰宅途中で呼吸が苦しくなり駅から自宅まで妻の肩にすがりながら歩いたこともあります。そこで大手病院でシオゾールという金製剤の注射を受けたり、吸入ステロイドの処方を受けたりしました。特に吸入ステロイドは、朝夜に処方されたとおりに服用しました。

しかしこれらの治療法もあまり奏功しませんでした。それどころか、数回にわたり、重い発作を起こし入院治療を余儀なくされました。時には外出許可を得て病院から勤務先に通勤したこともあります。だんだん経口ステロイドが手放せなくなり、自分で発作が起きそうだという予感がすると、先手を打ってステロイドを服用して発作が起きるのを予防したりしていました。
やがてこのままでは仕事が続けられなくなるという危惧を感じるようになり、それどころかいつ死んでもおかしくないという生命の危険すら感じるようになりました。たまたま同じ勤務先の会社で、私と同じように重いぜん息症状を抱えていたのに、ある先生の許にかかってからは急に快方に向かった方がいるという話を聞きつけ、その方にその先生を紹介していただきました。それが久我山病院の長屋宏先生だったのです。平成5年(1993年)の末、32歳の時でした。
長屋先生に多数のアレルゲンについて皮膚テストをして頂いた結果、ダニに強い陽性反応が出たほか、各種のカビ・花粉等、多数のアレルゲンについて陽性反応が出ました。長屋先生によれば、このように多くの原因物質が存在するのにハウスダストだけの減感作注射だけでは効果が乏しいのは当然であり、これら陽性反応の出たすべてのアレルゲンについてその陽性の程度に応じて減感作注射をすることが必要であり、かつそうすれば必ずぜん息はよくなる、ということでした。またこれまで用いてきた経口の気管支拡張剤や吸入ステロイドは、ぜん息発作が起きるのを予防・軽減するものであり、ぜん息を根治するためには上記のような徹底した減感作療法を行なわなければならない、という説明を受けました。
長屋先生の御説明は極めて合理的かつ明快で、その上詳細なものでした。真っ暗闇の中で急に光明が見えたような気持ちになったのを憶えています。そこで、それまで通院していた大手病院を止め、久我山病院の長屋先生のもとに通院する決断をしました。
長屋先生の下で減感作療法が始まると、たったの1ヶ月で早くもその効果を感じることができました。というのは、当時は季節の変わり目で発作の起こりやすい季節であったのに、一切ぜん息の兆候が感じられなかったからです。それ以降、毎週土曜日に通院して注射をしていただいてきましたが、それまでの30年間がまるで嘘のように何の発作も起こらなくなりました。また経口のステロイドの服用も一切必要でなくなりました。そればかりでなく、子供の頃から一貫して存在していた、初春を中心に鼻水が出るという花粉症の症状までがなくなりました。まるで魔法にかかったような気持ちでした。そしてそれとともに健康というのがどういうものなのか、その有難さを生まれて初めて実感することができました。生まれて初めて、ぜん息の恐怖に怯える必要のない、普通の人間の生活が送れるようになったのです。
以来、久我山病院に13年間にわたり通院しておりますが、その間一回もぜん息症状が起こることはなく今日まできています。また最近では毎週の通院は必要でなくなり、2週間の1回の注射でも大丈夫なまでになりました。今では自分は健康であると公言できるぐらい、自分の身体に自信が持てるようになりました。
このように30年間にわたるぜん息を治し、健康な身体に作り変えて頂いた長屋先生は、私にとってまさに命の恩人であり、どのような言葉で持って感謝すればよいのかわかりません。いくら感謝しても感謝しきれない気持ちでおります。


の修正版をここに掲載いたします。
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体験記2

61歳男性の体験記の修正版をここに掲載いたします。

    体験記
              男性61歳(東京都新宿区在住)

 私が9歳の時、初めてぜん息の症状が出ました。息ができない苦しさは本人にしか解らないつらいものです。
 このとき以来、「治りたい」、「治るなら何でもしよう」と思い医師に指示された薬物療法は勿論のこと、漢方薬の服用、鳥の生き血やなめくじを飲んだり、等々、西洋医学から迷信に至るまで、あらゆる試みをして参りましたが十分な効果は得られませんでした。代わりに体力造りに励みました。
 体力がついてくるに従い発作の頻度は減ってきましたが季節の変わり目には、定期的に発作が起き、安定した生活ができない状態が続いていました。
 50才を過ぎた頃、花粉症によるアレルギー性鼻炎が進行しているなか、ぜん息の発作が起き、寝たきり状態になってしまいました。病院での治療は「ぜん息は治りませんからね」と、まともに相手にされず、対症療法(一時的に症状が改善されても薬を止めれば再発し悪化)である気管支拡張剤・ステロイド・抗アレルギー剤などを使い続ける、まさに薬漬けの毎日でした。しかし、強烈な発作にはこれらも効果なく、苦しみのどん底に喘ぎ、死を考えるようになりました。またステロイドの副作用で身体の部位に異常が起き、別の不安も抱えることになりました。
 3年間苦しんでいたある日、近くの本屋さんで「ぜん息は治る」(長屋宏著)という本を見つけ、さっそく買い求めて読んだところ、これは本物だと思いました。先生の経歴(フルブライト留学生)、米国における実績あるアレルギー治療法=米国式減感作療法を修める)から、ぜん息の原因がアレルギーにあって、その治療法は抗原(ダニ・花粉・カビなどに対する抗体反応=炎症を起こすもの)を抑えこむための物質(抗体)を体内に植えつけ、反応を阻止する免疫療法と理解しました。
 海外の医療事情に詳しい友人の話から、「免疫療法は治療期間が長く、忙しい現代人はすぐ結果を求めるため、治療が続かない。また医療制度上のこともあり日本では普及していない。しかし、欧米では実績があり、非常に効果の高い治療法である。」と聞き、確信が持てました。
 まず、アレルギーの皮膚テストを受けたところ、125種類のアレルゲンのうち43種類に反応があり、特にダニ・スギ・カビに強い反応が出て、多種のアレルゲンがあることが判りました。先生から発病の原因やメカニズムの説明を受け、その指導のもと、まずアレルゲンを回避する対策(室内の徹底した清掃)、そして、皮膚テストの結果に基づきダニなどの反応のあったアレルゲンのエキスを作り、皮下注射による減感作療法(私の場合、3年間は2日に1回、以後は3日に1回の割合)を始めたのです。症状が安定するまでの2〜3ヶ月は薬物療法を併用し、その後は減感作療法のみでも発作が起きないようになりました。先生の治療が始まってから今日に至るまでの5年間、一度もぜん息が起きておりません。また、花粉症の鼻づまりで口でしか呼吸できなかった鼻炎も治りました。まさに奇跡が起きたのです。この結果を受け、二人の子供(花粉症・アトピー性皮膚炎)にも週1回治療を受けさせ良くなっております。
 現在、わが国で推定4千万人いると言われているアレルギー患者の中で、長屋先生は
16年アメリカから帰国され延べ1500人の患者を診てこられました。
その1500人の中の一人になれたことは、宝くじに当たったに等しい幸運を手に入れた気持ちです。我々患者は救われていますが、まだ多くの人々が昔の自分のように適格な治療法方がわからないままさまよっています。この現状に対し、日本アレルギー学会・それに連なる医師および国は長屋先生の治療法を認めようとしておりません。WHOが認める唯一の根本治療法をなぜ普及させないのでしょうか。
 その理由は、「知識がない」、「知ろうとしない」、「注射は手間がかかるが薬の投与は簡単」「薬は一時的に症状を抑える故に医師は自己満足できる」、「減感作は儲からない」、「薬漬け政策」、「独自で開発したい権威主義」、「国からの研究費の確保」、「保険制度の不備」、などさまざまでしょう。その結果、日本のアレルギー診療は欧米に比べ50年も遅れてしまいました。この遅れを取り戻すためすべてのアレルギー患者は声を上げる必要があります。なぜなら我々患者がこの遅れの唯一・第一の犠牲者だからです。
 私はこれまでの体験を顧みて、「現代医学は一病治すが一病作る」と言われる意味がよくわかりました。アレルギーについてもまた抗生物質の大量投与により患者の増大を引き起こしたのでしょう。副作用の多い薬物による対症療法を減らして免疫療法や予防医学が現代医学の主流となることを願うものであります。
                                                        以上
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2007年02月05日

日米両国でのアレルギー受診体験と日本のアレルギー医療改革への提言

私のアレルギー治療はアメリカで始まった。
(as)
はじめに
想えば、私は50歳を過ぎてから10年を超える苦しい喘息、およびそれに先立つ数年にわたるアレルギー性気管支炎という病魔から解放されて、今、快適な普通人の生活をしている。苦しかった時期を思い出すにつけ、いまのこの快適な毎日が信じられない。長屋宏医師の治療を受け続けた結果今の自分があるという実感がこみ上げてくる。私は私がどんな治療を受けて今の自分を取り戻したのかを書き記しておきたい。そして私の治療が日米両国に亙っていたので、私の体験から知った両国の治療の違いについても触れたいと思う。
一.アレルギーの発症とロサンゼルスでの治療
1.ロサンゼルス在住6年目の1987年の春先のころ、一年中、色とりどりの花が咲き乱れる花園のようなタウンハウスに移り住んで3年目だった。ある日突然咳が出て息苦しくなった。小学校時代以来ひいたことがなかった風邪をひいたのかと思った。咳と息苦しさで眠れぬ夜を過ごした翌日、ゴルフ仲間である友人から花粉アレルギーかもしれないと言われ、彼は懐から小さな白い錠剤をふたつぶ出してくれたので私は貰って飲んだ。彼は心臓外科専門の医師兼地元の大学教授であったので安心して彼の勧めに従った。気分がややよくなったように感じたが咳は続いていた。花粉アレルギーと聞いたので、その日の夜、少しでも花粉を鎮められるのではないかと思い、ゴムホースを使って家の周りの花々に水を掛け捲った。だが一向に症状は改善されないので、専門医に見てもらおうと思い、後日、その友人からカリフォルニア大学アーヴァイン校のアレルギー専門の教授である長屋先生を紹介してもらった。これが先生との出会いの初めであった。早速、先生に診ていただいた結果、アレルギー性急性気管支炎と診断され、治療をせずにこのまま放置すれば2年後には気管支喘息になるでしょうと言われた。そしてアレルギー免疫療法(減感作療法の現代版)による治療が始まった。その後分かったことだがアメリカではどの州でもアレルギーに対してはこの治療法が行なわれているようである。この治療の最初の日に先生が治療の中身について克明に説明してくれたことが印象深く記憶に残っている。説明のポイントは、まずは自分にとって悪いアレルゲンを避けること、避けられないアレルゲンについては治療は二つでこれらを同時並行的に続けること。一つはアレルギー症状が起きないようになるための(=減感作のための)注射を続けること(根本治療法)、および二つは現在起きつつあるアレルギー症状を一時的に押さえ込むための吸入ステロイドと気管支拡張剤(吸入または服用)の併用(対症療法)であった。治療について患者に理解させその了解を得てから治療を始める。これがアメリカ流なのかと思った。数年前に肋骨を痛めたときにかかった整形外科医の医師からも詳しい説明を受けたことを思い出した。説明の仕方も具体的だった。折れた骨が治るまでアルコールはご法度。この間にもし飲むとそれはあたかも骨折部分を金槌でたたくようなものだ、というのであった。私は完治するまでビールを飲むたびに胸にグサッとくるこのたとえを思い出した。
2.それにしても『喘息』などという自分には無関係と思っていた恐ろしい響きを持った病気が身近なものになるのかと思うと、この上ない不安が一瞬脳裏を掠めた。しかし、先生の丁寧な説明でこの治療を粘り強く続けることによって将来そのおそれから必ず解放されることになる可能性を知らされ、『喘息』になるという不安が消えた。先生の丁寧な説明が『喘息』という病気の結末である恐ろしい窒息死の可能性を自分からかき消してくれたと言ってもよい。自分は健康そのもので恐ろしい病気とは無縁と信じていたことも手伝ってくれた。
3.4月から9月まで、当時住んでいたロサンゼルス内陸部のウェストコヴィナから南西部の海岸近くに位置するトーランスの先生の診療所まで車で30分かけて、せっせと通って減感作のための注射を週2回ペースで受け続けた。注射後の帰る道すがら、毎回注射局所の痒みに耐えながら街路樹のユーカリの巨木やジャカランダの木に薄紫色の花が咲きほころぶトーランスのだだっ広い街路をドライブして帰ったことを覚えている。いつか、そして一刻も早く良くなることを期待して先生の診療所へ通い続けた。
4.折りしも、同じ年の10月から中西部へ転勤となったため、長屋先生に診断書を書いてもらい、それを転地先の診療所宛に示して同じ治療の継続をして貰うつもりだった。しかし、転地先の診療所では、改めて皮膚のスクラッチテスト(約24種類のアレルゲンによるテスト)が行なわれた。その結果、アレルギーは見つからずとの診断により減感作療法は不要と診断された。ロスから持っていって提出した診断書は無視された。その後2年で別の診療所(当時3歳と5歳の子供がかかっていた耳鼻咽喉科)で喘息になっているとの診断を受け、アレルギー専門医にかかるよう薦められた。長屋先生の予言が現実になった自分に唖然としたものである。以来、インディアナ、ミシガンと中西部での転勤先ではアレルギー科で喘息患者としての減感作注射によるアレルギー免疫療法および気管支拡張剤と吸入ステロイドの投与を受け、米国駐在中、1994年8月に帰国するまでこの治療を受け続けた。この間の症状は朝のうちに大量の痰が出た後は楽になり、午後は普通人の生活が出来るという毎日であった。勿論、特に発作などは出たことはなかった。
二.日本での治療と長屋医師との再会
1.帰国後は、タバコの煙が濛々と充満する職場環境のせいか、身体の調子が芳しくなく、耳鼻咽喉科通いの日々を送っていた。受けた治療は自宅近くの医院でメプチンによる気管支拡張のための吸入をやるだけで、あとは主にステロイド系の錠剤とベコタイドなどの吸入ステロイドの処方による薬漬けにされる以外に勿論、減感作療法などやってくれることはなかった。
2.帰国して4ヶ月目に激しい喘息(?)発作に襲われた。息が苦しく、一人で立って歩くこともままならず、いつ死ぬのかという不安で肉体的だけでなく精神的にも一人でいるのが怖く、妻の肩に寄りすがるようにしていないと不安を感じる毎日であった。
3.米国で受けた治療は日本で受けられないものかと思ううち、帰国された長屋先生のことを思い出し、アメリカの友人を通じて先生が久我山病院で診察されておられることを聞き知った。早速調べ当てて診察を申し込み、確か3週間後に順番が来て診療が始まった。その年の師走も終わろうとする頃であった。当時、久我山病院まで電車を4つ乗り継いで2時間以上もかかる横浜に住んでいた。しかしノーチョイスで久我山病院へ通うことに意を決し、アメリカから帰国後初めての減感作治療が再開された。150を超える抗原による皮膚テストの結果37種類のアレルゲンに反応があった(内、食物については54種類のアレルゲンに対して、玉葱に弱陽性、ナツメヤシに中陽性、白黒コショウに強陽性と出たので食事の際はこれらを避けるようにしている)。反応があった内訳は、13種類に中程度、23種類(木の花粉6種、イネ科の草の花粉3種、シバ科の草の花粉4種、ダスト5種、カビ5種)に強度の反応があったようで、それらの混合希釈液での減感作注射が始まった。
4.長屋医師の患者である私に対する治療のやり方はアメリカ中西部で他の医師から受けた治療の体験とははじめから異なっていた。プリックテストから毎回の注射に至るまですべて先生自身がやり、注射が終わった後の反応を先生自ら手で触って確かめるという徹底したものである。その態度には自ら病魔と真剣に立ち向かおうとする科学者としてオーラを感じた。先生の指が注射局所に触れたときに、忘れかけていた初めて先生の治療を受けたロサンゼルスの頃を思い出した。先生の指で初めて私の腕にふれられたときは戸惑いながらもその指の感触が患者である私の全身に満幅の安心感を与えてくれた。そのことがここ久我山病院で彷彿としてきた。
三.米国での治療体験
1.長屋先生の治療の仕方は米国で他の医師から受けた治療とは大分異なっていた。と言うのも、中西部へ行ってからの治療はインディアナでもミシガンでも主治医の最初の問診・診察以外はテストを含め注射およびその後の反応のチェックはすべて看護婦がやっていたからである。もっとも、看護婦による事後チェックは反応に異常があるかないかのチェックをするだけであり、異常があれば医師が出てくるのかなという感じであった。
2.ここで、看護婦について付言する。色鮮やかな頭髪と碧眼高鼻の面立ち、それに圧倒的な体格差に戸惑いながらも落ち着いて観察すると、いろいろなタイプがいた。用心深い丁寧なタイプから力ずくでやるタイプもいて、スクラッチテストや注射されるときにある程度身構えていないと予期もしていない痛みや出血に耐えさせられることもあった。タイプによっては繊細な感覚に疑問を感じる看護婦もいたが、その大柄な風貌にも拘らず患者に対してきめ細かな配慮をしていることを感じさせるタイプもいた。また、自らの任務を全うすることが主でスクラッチテストのときは確実に傷をつけるということに集中し、この点その責任感と専門意識の強さに好感を感じたが、患者の痛みを軽減するための意識に疑問を感じるタイプもいた。
3.こんなこともあった。忠実に注射のフォーマットに従ってやっているようで、最初の数ヶ月は週2回、その後数ヶ月は週1回、その後は月2回・・・、という具合に注射の反応如何に無関係に注射のスケジュールが決められているらしく、ある日、調子が悪いので週1回の時期に2度目の注射を求めて診療所を訪ねると「あなたは今日は注射出来ません。スケジュール上、あなたには今週は1回しか注射できないことになっていますから」と追い返された経験がある。このことからも、長屋先生の治療法が如何に患者個々人の症状に合せた緻密なものであるかが分かる。
4.ここで、私の子供の治療体験について少し記しておきたい。現地での子供の医療は日本と異なっていた。4,5歳になっても日本では小児科扱いだと思うが、米国では、うちの子供は小児科医には生まれた時と乳幼児期以外はかかったことがなかったと思う。3歳ぐらいから大人と同じように耳鼻咽喉科にかかり、娘が5歳でアデノイド手術をしたときも耳鼻科の医師が執刀にあたった。そのとき小児科医の参画はなかった。病人は小さいときから専門の医師がみるというのが米国の医療なのか。アレルギーについては乳幼児期からアレルギー専門医がみるらしく、耳鼻科、咽喉科、皮膚科、アレルギー科など、医療の分野での重複を避ける体制が確立しているようである。アメリカ憲法が年齢による差別を禁じている原則がこの分野にも浸透しているのか、と私なりに合点した。
四.住居環境の整備と長屋式減感作療法の励行およびその効果
1.この治療を続けるには私にとっていろいろ負の誘惑もあった。たまたま私の身内には耳鼻咽喉科の専門家がいて減感作療法の効果を疑問視しており、「半年もやって効かないときはそれ以上続けるのは無駄でしょう。」と言い、早めに切り上げて漢方などに頼ることを薦めてくれるアドバイスもあった。しかし、アメリカでの経験をたよりにこの治療を続けた。はじめは週に毎日6日間、毎回6〜7時間かけて減感作注射のために通い続けた。私は家族も含めて将来とも長屋先生の診察を受けることが必要になると感じ、思い切って病院の近くへ引っ越すことにした。購入したマンションには完全なリモデリングを施し(床は畳を撤去しすべてフローリングにし、天井・押し入れ・壁を板張りにしたうえでビニール製の模様紙で覆い、カーテンは上下開閉式のビニール製のブラインドに替え、埃の原因となるものすべてを排除し)た。勿論、寝具類は家族全員の分を防カビ・防ダニ用のものに新調し、思い出の詰まったすべての品々を捨てるか倉庫にしまいこんだ。そして引越してからは5分で病院へも通えるようになった。減感作療法の効果は気づかぬペースで徐々に出てきて、3年目頃からは週3〜4回、5年目からは週2〜3回でも楽になったような気分的なゆとりを感じられるようになり、長屋宏医師の治療を日本で再開してから8年目にして漸く人混みの中に出れるようになった。また、そのころから、外出して学友との旧交を温めたり、10年来やめていたゴルフもできるようになり、歌舞伎や音楽会にも二の足を踏むことも無くなった。旅行も出来るようになり、昨年は、一泊旅行で伊勢神宮へ赴き伊勢志摩国立公園をドライブしたが何らの支障もなかった。今では朝晩の吸入以外は普通人の生活ができ、完全に社会復帰ができている。長屋先生は他の多くの患者がそう言っているように、まさに私にとっても命の恩人と言っても過言ではない。
2.以上、減感作療法に中心をおいて述べてきたが、勿論、気管支拡張のためのベネトリン・食塩水の混合液の吸入は8年間、一日4回(苦しいときはさらに1〜2回追加)を基本に欠かさず続けた。8年経って楽になってからは朝昼晩の一日3回、現在は一日2回で済んでいる。さらに対症療法である吸入ステロイドもベネトリン・食塩水の混合液吸入直後は必ず行なってきたことは言うまでもない。現在は吸入器使用後にパルミコート(吸入ステロイド)を二呼吸ずつ吸入している。これは長屋先生の指示に従ったものだが、アレルギーを治すためには減感作療法と薬物による対症療法があたかも車の両輪の如く不可欠であるとデトロイトの主治医から聞いていたことも先生の指示を理解するのに役立っている。最近、先生の著書を身を入れて読んでからは他の病院で避けたらと言われていたテオロングも気管支拡張に有用だということが判りまた特に副作用を感じないので朝晩飲むようにしている。とにかく、ぜん息との闘いはそんなに生易しいものではないということをまずもって肝に銘じておくことが肝要であると自分に言い聞かせた。こんなに長い間毎日苦労する理由はただ一つ、窒息死を避けたいからである。身体の一箇所を除いてすべて健康そのものでも息ができないで窒息死することほど恐ろしいことはない。こういう状態になると医師も家族も何もできず、絶叫しながら絶命してゆく患者をただ手をこまねいて待つこと意外に何もできないでいるところを実際にみたことのある人ならその恐ろしさが判るであろう。
五.小児ぜん息について
 私の息子は6歳で帰国したが、風をひきやすく就寝中咳き込むことが多かったので長屋宏医師に診てもらうと、ぜん息になっていることが判明した。所謂小児ぜん息である。その原因アレルゲンを特定すべく、すぐに皮膚テストを行い46種類のアレルゲンに対して中・強陽性の反応が出た。特にダニのアレルギーに強い反応を示していた。大学受験までの約13年間私と一緒に減感作治療を受けることになった。その効果か、大学生となった今は落ち着いている。長屋先生の著書によれば、公害ぜん息の認定をうけた小児ぜん息の患者の99%がダニに強いアレルギーがあるという臨床結果が出ているという。公害が直接の原因によって喘息になったのではなく、家庭内のダニによって喘息になり、公害がそれを悪化させていることをもっと政府は知るべきではないか。小児ぜん息はダニが主原因で公害はその加速要因である。公害ぜん息治療のための政府予算をダニアレルゲンの減感作療法の普及にも使えればどんなに小児ぜん息患者を救えるか計り知れないのではないかと思う。 
六.アレルギー免疫療法(最新の減感作療法)はなぜ効くのか
 最新の学説によると、アレルギー体質の人はそうでない普通の人と比較してアレルギー反応を抑制・コントロールする細胞の量が少ないためにアレルギー反応が過剰に起きる傾向にある。しかし、減感作注射によって免疫細胞のなかのアレルギー反応を抑制コントロールするTR細胞という細胞が注射回数と比例して増大し限りなく正常人(アレルギー体質のない人)の量に近づくという。そして、長年に亘り減感作注射をしているとその働きをする細胞の子孫まで体内に蘇生する可能性があるというのである。これにより注射をやめてもこの細胞が多ければ多いほど長年に亘り(10〜15年)アレルギー反応が抑制され続けられるということが明らかになったという。アレルギー体質の私にとってこの上ない朗報である。他の用事を犠牲にしてでも手間を厭わずに減感作のために病院に来たいという誘引の力強い支えになっている。これまで十年以上に亘る病院通いが無為に終わるのではなくその苦労が身体のなかに財産として蓄えられつつあるということである。なんともうれしい充実感に浸らしてくれる理論である。
七.日本の減感作療法の現状
1.では、日本でこの徹底した減感作療法が行なわれているのだろうか。
この質問に対する答えはイェス・アンド・ノーであろう。しかし現在の日本では最初のイェスは残念ながら限りなくノーに近いイェスでしかない。その理由は、私の知る限り、まづ第一に、大半の医療機関で行われていないということ。第二に、主要な専門医療機関で行われていたとしてもハウスダストなどの限られたものについてしか行われていないこと、という点である。国民の少なくとも3割(4千万人)がアレルギーに冒され、毎年、3000人を超えるぜん息死をひき起こしている日本においてアレルギーの根本治療法であるはずの減感作療法が欧米先進国にこのような遅れをとっている日本のアレルギー医療の一刻も早い改革が必要である。私が久我山病院に来る前に日本で受けた治療では、今頃私は病死していたのではないかと思い、日本のアレルギー医療のレベルの低さというより恐ろしさを身をもって感じている。
2.記述のとおり、長屋医師による100を超えるアレルゲンの皮膚テストの結果、私は37種類のアレルゲンに対して反応があった。この反応があった中の主要なアレルゲンすべてに減感作注射できて初めてアレルギー反応から解放されたのである。そしてそのために8年の通院という歳月を要した。もしこの通院と長屋先生の治療がなかったら今の私の存在はあったであろうか。10年前、私はあたりが薄暗く感じられ、ただ息苦しく、死ぬのではないかという不安で自らをコントロール出来ず、妻に支えられなければ立ち上がることもできなかったのである。親戚の薦めに従って大枚はたいて無益な漢方に明け暮れていたらどうなっていたか、どこか他の病院でステロイド漬けにされ骨をやられて寝たきりになっていたか、あるいは暗い夜に突然の発作による窒息により絶命し人生を終えていたかもしれない。でも私は今元気に生きている。それは長屋医師による米国並みの最新の減感作療法すなわちアレルギー免疫療法を受け続けてきたからである。
3.日本のアレルギー根本医療環境の貧弱さ
では、今の日本に私を治してくれた37種類のテスト溶液と治療液があるであろうか。(→ない。)
その前に、そもそも37種類のアレルゲンが如何にして特定されたかから説明が必要ではないか。それは100種類を超えるアレルゲン(すべて米国製)で皮膚テストした結果判明したのである。(→十分なアレルゲンもなければ皮膚テスト溶液も注射液もない。不完全な結果しか得られない血液テストしか行われていない。よしんば血液テストでアレルゲンが判明しても減感作のための注射液が限られている。→テスト代を払っても治療はしてもらえないのが実情。あまりにも不合理ではないか!)
現在の日本には花粉についてはテスト溶液で12種類、治療液で4種類(うち重要なものは2種類のみ)しかない。花粉以外では、私の最も反応の強いダニのエキスがテスト溶液・治療液ともに標準化されたものがないという。更に私にとって重度の反応のある数種のカビについても米国には19種類あるのに対して5種類しかなく、日本には殆どないと言っていいに等しい。スギ花粉症のひとの4人に3人はヒノキの花粉症があり、さらに2人はマメノキ・オリーブ・ニレ・カシ・ヤナギにも花粉症をもっていることが臨床上明らかになっている。このことからもスギ花粉症の患者にスギだけ注射してアレルギーが治るはずがないのは明らかである。
この状況が日本で減感作療法が効かないといわれる唯一の原因だと聞いている。私が今こうして普通人の生活が出来ているのはアメリカから輸入されたテスト溶液・治療液によっている。日本にあるものだけの治療では私の快適な今はなかったと断言できる。
日本では50年前からこの状態が変わっていないと言われている。
4.私の経験でこの治療法の根底にあるアレルゲンについて常々疑問に思っていたことがある。それはテスト液、注射液共にすべてアメリカ製であるのでそれが前提の治療法の結果が果たして日本人に効くのかという点であった。
これについて私の体調にある出来事が起きたことを思い出す。アメリカで喘息の宣告を受けてからまもなくの頃、社命で一時帰国したときのことである。渡米前、社会人となると同時に通勤電車により山手線で原宿を通過して会社に通うようになったが、10年以上にわたり何もなく通過していた原宿のあたりで帰国時に突然呼吸困難になった。アメリカで喘息になった原因がここにもあったのである。思うに、現代の世界は、ペットをはじめとする動物は勿論のこと、人の交流だけでなく同種・亜種を含めて花粉、ダニ、カビに至るまで世界中を駆け巡っているものがそのまま日本に入ってきているのではないか。従って、米国で開発されたとされるアレルゲンは同時に日本でもそのまま使って何ら支障がないと言ったら言い過ぎだろうか。少なくとも私の減感作療法の効果については言い過ぎではないと断言できる。今の健康な自分がその証明である。
日本とアメリカのアレルゲンに差があるかについては少なくとも治療効果については共通であると考えてよいのではないかと思う。異民族を前提として確立されたアメリカの抗原はいわば最先端の技術と英知を駆使して作られた堅固な石橋であり、これに対してこの石橋を時間を費やして無為に叩いている厚生労働省の現在の治験制度は障壁の役割を果たしており、その間に4千万人のアレルギー疾患者は根本治療から引き離され、患者にとって効果が刹那的で医者にとって安易で無畏な薬漬けに放置され続けているのである。そういう状況の中、有効な減感作療法は日本アレルギー協会を通じて米国製アレルゲンを自己負担によって入手して行う道が残されているに過ぎない。しかも日本においてそれが可能なのは私の知る限り久我山病院の長屋宏医師によってのみである。減感作療法が他でも行われているといっても、それは数少ないアレルゲンによるか、鼻炎のような軽微なかつ局所的なアレルギー症状にしか効果がないとされる舌下減感作が大学の研究機関で試験的に行われているに過ぎない。舌下減感作の場合は注射の場合に比して3〜300倍以上の濃度のエキスを使うとされているので即効性があると期待されているようだがその危険性は計り知れないのではないか。
 5.日本のアレルギー医療を阻んでいるものは何か。
日本では50年前から減感作療法が変わっていないと言われている。医療の分野での国際交流が日本にはないのだろうか。特に日米のアレルギー臨床医学の交流がないことが日本のアレルギー病の治療の立ち遅れにつながっていないだろうか。
日本のアレルギー医療を阻んでいるものには少なくとも三つのことが考えられる。
@アレルギー学の分野での日本人の活躍には顕著なものがある。1966年石坂公成博士によるIgE、1968年の宮本昭正博士によるコナヒョウヒダニの発見などアレルギー学界に世界の先駆けとなる偉大な業績を残した学者がいたにもかかわらず、何故に日本のアレルギー治療法がかくも遅れを取っているか。それは日本医学界の歴史上、これまで患者との接点にいる臨床医が無視されてきたことに要因を求められるのではないか。日本で最初に世界的な名声を博した医学者野口英世ですら臨床医であったために日本の当時の学会から乾されていたという。医学界の主流は大学・研究所であり、そこで大量の医学博士が製造される。今日医学生の7,8割が博士号を取得すると聞く。資格取得のために医学生は教授先輩の主義主張をしっかりと守って現体制にしがみついている。そこに海外の最新医療技術・学説の入り込む余地は極めて少ないと言えるのではないか。学問のほかの分野でこのようなことが起きているであろうか。例えば法律学、経済学の分野で博士号を取得できるのは1割にも満たないであろう。
Aかつて減感作療法が初めて日本で始められた頃、有力大学の現役学者が喘息を患らっていたことから自らの手製のエキスで自分に注射したところ、同僚の見守る中でアナフィラキシーをおこして死亡した事故があったという。この事故以来日本の指導的な学者の間に減感作療法に対する恐怖が蔓延しており、アレルギー学会の趨勢としても、患者ではなく医師にとってより安全な薬物による対症療法に傾斜していったという見方をする人もいるという。減感作療法においても、特にダニへの恐怖心が強く、ハウスダスト(中身が何だか不明な、しかしダニよりは安全?→中身が不明ゆえに危険なはずだが)による代用の習慣ができたようである。そしてこの内容不明なハウスダストを厚生労働省が牢乎な治験を通過させて治療エキスとして認可している。学者の間に恐怖による科学的思考の放擲が続いているのだろうか。海外では患者救済のために減感作療法の技術が日進月歩を遂げている間に、日本では50年前のプリミティヴな減感作療法がいまだに続いている。これは世界に対して恥ずかしく、患者にとって許し難いことではないだろうか。
B 大学内の既得権益争いも関連しているようである。
ある大学でアレルギー学部の新設の話が持ち上がった。教授会で学部新設の討議がなされたが、耳鼻咽喉、皮膚、小児、各学部その他の学部からの強い反対で否決されたという。患者救済のための討議ではなく各学部の権益争いのうちにこのアレルギー学部新設のアイデアは葬り去られたという。
以上、@、A、Bの事実からも日本の医学界の現状が如何に患者を無視した状況にあるかがわかるであろう。
6.学界も政府も患者のための医療をやってきていないと言えないであろうか。アメリカでもフランスをはじめとするヨーロッパの先進国でも普通に行なわれているアレルギー免疫療法(最新の減感作療法)がなぜ日本だけで行なわれていないのであろうか。私はアレルギー患者を薬漬けに放置し続ける厚生労働省・日本のアレルギー学会に翻意を求めたいと強く希望したい。厚労省はアレルギー学会に長年に亘り国民の血税を注ぎ学会はその血税をアレルギーに苦しむ国民を救うことのできる(WHOが認める)根本治療法であるアレルギー免疫療法(最新の減感作療法)の実施拡充に努めるべきである。にも拘わらず、対症療法としての薬物療法に集中している。これは患者の苦しみを一時的に和らげるだけの弥縫的な治療法に過ぎず、根本治療を避けて大なり小なり副作用を伴う薬物療法に特化し、ただひたすら製薬会社を利する結果になっている。何とかこれを改め、患者のための治療を日本に実現して欲しい。
八.日本のアレルギー医療の改革のために
私は我々アレルギー患者が根本治療を受けられるようになるためには日本のアレルギー医療の改革が必要であると叫びたい。アレルギー医療の主役である日本アレルギー学会、厚生労働省に対して日本のアレルギー医療の改革のために次の提案をしたいと思う。
A.前提
T。薬物による対症療法はアレルギーを一時的に抑える弥縫的な治療法に過ぎない。対症療法はアレルギーによる修復不能な呼吸気道のリモデリングを根治することはできない。
U。アレルギー免疫療法(徹底した減感作療法)は アレルギーを治せる唯一の根本治療法であることは1997年にWHOも宣言している。日本以外の先進国はすべてこの治療法を実施・拡充している。これを日本でも拡充・実施することが急務である。
B.日本で現在十分に実施されていない改革すべき具体的な項目
1.アレルギーの原因確定
アレルギーの原因を突き止めることがスタートとなる。通常、複数(20〜40)あるのでそれらを出来るだけ多く確定することが必要。
2.その確定の手段
そのためには皮膚テストが必要であること。殆どの医師は血液テストしかしていない。血液テストでは小児やアレルギーになりたての患者には発見できず、見逃す可能性大。〈アレルギーテストは体内のIgEの有無・量を測ることだが、IgEはアレルギー反応とともに身体の外表(皮膚・呼吸気道・鼻胃腸壁など)にまずたまり、その部分に十分たまってから残りが血液中にたまってゆく。それゆえ血液中に反応に表れるほど十分なIgEがたまる以前に喘息などの重篤なアレルギー疾患を起こしていることがある。この場合は血液テストに表れないのでミス判断になる。まず第一に皮膚テストをすべきで、それによりアレルゲンの早期発見が可能になる。
3.テスト溶液の確保
テストのためには十分なテスト溶液が必要であること。日本で入手可能なテスト溶液は限られており、これを早急にふやす必要がある。
4.注射液の確保
テストで分ったアレルゲンの減感作注射が必要であること。
そのための注射液が必要であること。→十分にない。テストはやっても治療液がない→患者はテスト代を払わされて治療してもらえない状況。
5.安全かつ有効な減感作注射を行える医師の養成
その注射をすることの出来る医師がいなければならない。→いないと言っていいほど限られている。
6.厚生労働省への要請
以上につき日本アレルギー学会は何をしているか→対症療法に終始。
国民の少なくとも3割(4千万人)が何らかのアレルギーに悩んでいるという現実の中で、厚生労働省は、国民がアレルギーから解放される唯一の根本治療法であるアレルギー免疫療法(徹底した減感作療法)に目をつぶり続ける日本アレルギー学会に国民の血税を注ぎ続け、徹底した減感作療法に不可欠なテスト用・治療用エキス拡充が急務であるにもかかわらず、国民を救済すべき施策への要請を50年に亘って放置し怠り続けている。
以上を改め、早急に、50年遅れたアレルギー医療改革に着手すべし。
以上
posted by AS at 19:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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